2025年は戦後80年。
戦争経験者の高齢化が進んでいる。
悲惨な体験をどのように語り継ぐのか、その取り組みをシリーズでお伝えしていく。
戦後80年―語り継ぐ戦争の記憶
1回目は80年前の8月6日、広島の街を焼き尽くした「原爆の火」の伝承。
広島市に原子爆弾が投下されてから8月6日で80年。広島の街は深い祈りに包まれた。

あの日、一瞬にして尊い命を奪い、街を焼き尽くした原爆の火。
その炎が今も遠く離れた札幌の地で受け継がれている。

札幌にともる「原爆の火」
札幌市西区の日登寺にともる原爆の火。
80年前、広島市で被爆した兵士がカイロに移して、故郷の福岡県に持ち帰ったものが種火となっている。
「平和の象徴としてともしたい」と、1989年に分けてもらった。
その炎を特別な思いで見つめる人がいた。

被爆二世・川去裕子さんの思い
札幌市に住む川去裕子さん、67歳。
父親が被爆した被爆二世で、18歳まで広島県で暮らした。
「通りかかった人が子どもを助けようとしたけれども、火が迫ってきて助けることができずに置いて逃げた。そういうことも、この火がなければ起こらなかったということですよね」(川去さん)

川去さんが生まれたのは終戦から13年後。
被爆直後の惨状は体験していない。
しかし、69歳で亡くなった父親の体験を語り継ぐ活動をしている。

「父親が逃げる途中で同じ中学校の下級生がいて、やけどしているのに何もできなかった。橋を渡ろうとすると、死体が流されているのを見たと」(川去さん)
当時、父親は15歳。
2歳年下の妹を原爆で亡くしている。
「(父親が)歩いていこうとすると水をくれとかいう人がたくさんいるが、自分は何も持っていないから何もできない。その横をやけどしていないで歩いていくのが、すごくつらかった」(川去さん)

26年前に亡くなった父親。
実は、このつらい思い出を封印していた。
「父親からは何も聞いていない。ただ父親は原爆のこと、妹のことを書いた原稿を残しているので、やっぱり書いて残さないとだめだと思う気持ちが働いてたと思う。それを使って話すのは、私に残されたもののひとつかな」(川去さん)

「原爆の火」守り続ける思い
日登寺の住職、佐藤光則さん。
札幌市で原爆の火を守り続ける思いとは。
「絶対に起こしてもらいたくないのが争いごと。孫の代、そのもっと先の代まで戦争を嫌う気持ちは持ってもらいたい」(佐藤さん)

日登寺では原爆が投下された午前8時15分に合わせ黙とうが捧げられた。
参加した被爆者の一人は。
「元気でいるうちは核の廃絶と、戦争は二度とだめだということを訴えて頑張ろうと思う」(被爆者 金子広子さん)

厚生労働省によると被爆者健康手帳を持つ人は、初めて10万人を下回った。
北海道内では171人で、平均年齢は86歳を超えている。
平和記念式典で広島市の松井一實市長は、次の世代に向けてこう訴えた。
「次代を担う若い世代には軍事費や安全保障、さらには核兵器のあり方は自分たちの将来に非人道的な結末をもたらし得る課題であることを自覚してもらいたい。その上で、市民社会の総意を形成するための活動を先導し、市民レベルの取り組みの輪を広げてほしい」(松井広島市長)

「きょうの聞き手はあすの語り部」
亡き父親の思いを語り継ぐ川去さんも誓いを新たにした。
「きょうの聞き手はあすの語り部。そんな気持ちで私の受け取ったものを引き継いでいきたいと思います。一緒に伝えていってくれませんか」(川去さん)
原爆の火は、これからも平和の尊さを伝え続ける。
