『記憶を継ぐ教室』アルバイトの女子高校生ら3人射殺…未解決のスーパーナンペイ事件と向き合い続ける教育者の30年

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1995年7月30日の夏の夜。

八王子市の「スーパーナンペイ」で、アルバイトの女子高校生ら3人が銃殺されるという衝撃的な凶悪事件が発生した。

女子高校生ら3人が射殺されたスーパーナンペイ大和田店(1995年)
女子高校生ら3人が射殺されたスーパーナンペイ大和田店(1995年)

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犯人はいまだ見つからず、未解決のまま30 日で30年が経過した。

桜美林高校で聖書の授業を教えている木村智次さん。

木村智次さん
木村智次さん

この学校の卒業生でもある彼は、30年の歳月にわたり、八王子のスーパーナンペイ事件の記憶と向き合い続けてきた。

あの日、命を奪われた矢吹恵さん…彼女もまた、この学び舎に通っていた1人だった。

被害者の一人、矢吹恵さんが当時通っていた桜美林高校
被害者の一人、矢吹恵さんが当時通っていた桜美林高校

教壇に立つ今、木村さんは「命の尊さ」を語り継いでいる。



目に飛び込んできた新聞記事が、すべてを変えた

その衝撃は、朝刊の一面記事によって突きつけられた

「女子高校生ら銃で殺害」

目を疑う記事の中に、「矢吹恵」「桜美林高校2年」という見慣れた文字があった。

凶悪事件に騒然とする事件現場(1995年)
凶悪事件に騒然とする事件現場(1995年)

矢吹さんとは、廊下ですれ違う程度の面識しかなかった。

クラスメイトではなくても、その死は「身近な誰かの喪失」として木村さんの胸に刻まれた。

世の中を震撼させた凶悪事件が突然「自分ごと」になったのだ。



文化祭に込められた祈り

木村さんが語り部として最初の一歩を踏み出したのは、母校の文化祭だった。

卒業生の有志によって毎年続けられている追悼展示には、事件当時の新聞記事、記録写真、手記が丁寧に並べられる。

犠牲者矢吹恵さんの母校・桜美林高校
犠牲者矢吹恵さんの母校・桜美林高校

資料の収集から設営、撤収まで、「風化させたくない」という一心で、矢吹さんの同級生たちは動いてきた。

そんな同級生たちの姿は、木村さんに事件を次世代へと継承する覚悟を決意させた。

スーパーナンペイで射殺された3人の犠牲者
スーパーナンペイで射殺された3人の犠牲者

2025年は事件発生からちょうど30年。

文化祭当日には、来場者に簡単なアンケートを実施する予定だという。

展示を“伝える場”から“対話の場”へと進化させる試みだ。



30年という時間

この30年間、木村さんは、牧師として、そして教育者として、年齢を重ねてきた。

チャペル「荊冠堂」での木村智次さん
チャペル「荊冠堂」での木村智次さん

「あの朝刊を開いた瞬間のことは、今でも昨日のように思い出せます。しかし、30年という歳月は自分を大人にしてくれました」

被害者の母親が事件から15年後に口にした「元気でいてさえくれればよかった」という一言。

木村さんにとっては「生きていることそのものが尊い」と再確認し、命の価値を伝えるきっかけとなった重い言葉だったという。

事件が未解決という現実と向き合い続けながら、木村さんはこう語る。

「30年という時間が生み出す距離感を埋めるには、生徒たち自身の“今”の声が必要です」

記憶の灯を絶やさぬように

今も校舎の一角には、当時と変わらないままの教室や廊下が残っている。それらは木村さんにとって、記憶をつなぎ止める小さな灯火だ。

「忘れられることが、いちばん怖い」そう何度も繰り返す木村さん。

桜美林高校のチャペル「荊冠堂」
桜美林高校のチャペル「荊冠堂」

記憶が薄れるほど、痛みも遠のいていく。そして命の重みまでもが、静かに風化してしまうのではないか。

木村さんはその危うさを教室で伝え続けることで、自分自身にも繰り返し問い直し続けている。

「命」を伝える教室

教壇で木村さんは、事件を語る。それはときに説教にも似た静かな語り口だ。

「今の生徒たちは事件を知らない世代。でも、話せば必ず耳を傾けてくれる。心を動かしてくれる生徒が、必ずいます」

木村智次さん
木村智次さん

授業のあと、彼の元には感想文が届く。

「命の重みを改めて考えた」
「日常の一瞬一瞬を大切に生きたい」

その言葉の一つひとつが、静かな余韻となって教室に残る。

いつか真実にたどり着くために

事件は、今も深い霧の中にある。

だが、現場に残された“痕跡”が、その輪郭を少しずつ浮かび上がらせている。

事件現場となったスーパーナンペイ大和田店(1995年)
事件現場となったスーパーナンペイ大和田店(1995年)

警視庁は、今なお指紋の照合作業を続けている。事件現場から採取されたのは100点を超える指紋。

その中で、殺害現場となった事務所内で個人の特定に至っていない指紋は、7点にまで絞られた。

指紋など証拠を採取する捜査員(1995年)
指紋など証拠を採取する捜査員(1995年)

それらは内側のドアノブ、カウンター、ついたて、ロッカーなどから検出され、特徴点も鮮明に残されているという。

なかには、被害者の周辺、つまり、犯人が歩いたと推定される動線付近から見つかったものもある。

捜査協力を呼び掛ける看板(1995年)
捜査協力を呼び掛ける看板(1995年)

警視庁はこれまでに延べ22万人以上の捜査員を投入し、事件発生から30年を迎えた今もなお、犯人検挙に執念を燃やしている。

捜査一課の鯨井由雅管理官も「事件の真相を明らかにしたい」と犯人逮捕を誓う。

「私たち警察は、被害者の無念を晴らすため、必ず犯人を検挙します。そして、ご遺族の気持ちに応えるためにも、逃げ得は決して許しません」

そしてまた、木村さんの語り部としての道のりには迷いや葛藤もあった。

木村智次さん
木村智次さん

それでも真実を求める気持ちが、30年経った今も静かに生き続け、彼の語り部としての歩みを支えてきた。

「いつか必ず、矢吹さんに“解決しました”と伝えたい。その日まで、語り部として歩みを止めるわけにはいきません」

それがかなうその日まで、彼は今日も教室に立ち、記憶の炎を絶やさぬよう語り続ける。

(フジテレビ社会部・小野恵理)

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